昭和47年5月28日 朝の御理解
中村良一
御神訓
一 食物はみな、人の命のために天地乃神の造り与えたまうものぞ。
様々な食物があります。そこで、やはり、好き嫌いが出来ます。苦いものがあるかと思うと、臭いものがある。辛いものがある。甘いものがある。だから、そういう、様々な味わいのものが、ちょうど良い具合に摂取、取られる、ね。それが頂けるところに、身体、健康の上にも、良い健康のおかげを頂くことが出来る。これはもう、嫌いだからと、言うて、それを、むげに食べないという事はなくて、やはり、それを好きになる稽古をさせてもらって、何でも、美味しゅう頂けれる、やはり稽古をすると、いよいよ、有難いことになる。食物は、人の命の為に、天地の神様が造って下さったのであるから。そこで、私共は、様々な、まぁ、食べ物を、嫌いなものでも好きになるような稽古をさせてもらう。いわゆる、味の付け方を教えて下さるのが、生神金光大神だと。ね。苦いものの中には、苦い、一つの味がある。辛いものにでも、いわば、臭いといわれる、いうなら、ニンニクのようなものでも、そりゃ、大変な良い味わいのものである。ニンニクを使いつけたら、もう、ニンニクなしには食べられんというくらいに、味が良いものです。
けれども、むげに、そんな臭いものを食べんと言うたら、それまでのこと。もう、ニンニクと言うのは、大変に、栄養があるものですよね。もう、中国の人達なんかはもう、ニンニクはもう、何時も頂いてある。もう、国中が、だから、ニンニクの臭いが、ぷんぷんしよるです。シナの国に行きますとね、もう、私も、あの、あちらに行っておりましたから、もう、始めの間はもう、本当に、往生するくらいだった。もう、電車の中にでも乗ったらもう、ニンニクの缶詰の中におるごたる感じ。臭い臭いね。そこで、嫌い、好かんとばかりは言うておれんから、食べだしたらもう、段々、一年ぐらいたったらもう、生で、あれに味噌を付けてから、かじるぐらいに好きになった。それで、自分も臭くなったから、もう、一つも臭さを感じない様になった訳ですね。
今でも、ニンニク、好きなんですけれども、もう少しね、こう、皆さんが、ニンニクをあんまり食べませんから。私がニンニク食べてから、ぷんぷんさせよったら、皆さんが、困るだろうと思って、頂きませんけれどね。様に、やはり、嫌いなものでも、稽古をさせてもらいよると、好きになる。いや、しかも、それがなからにゃ出来んほどしになる。そこから、栄養も採られてくる、おかげになってくるのです。同時に、または、命の為に与えて下さったものですから、ね。命の為に頂かねばならない。ですから、それは、本当に、お粗末ご無礼な事があっては、相すまんことになる。ね。例えば、お醤油、一滴でも、神様のお与えのものですから、それを粗末にしないようにしていただかなければいけない。ね。硬いものが沢山ありますと、どうしてもお粗末になる。それが、私は、ご無礼になると、ね。神様が、与えてくださったものだから、それを、綺麗に頂きこなした時にです。ね。神様が、お喜びくださる。
例えば、ほんなら、他所から、美味しいものを頂いたとします。それを、こげな物は好かんち言うちから、まぁ、ゴミ箱の中に入れたとしましょうか。それを、ほんなら、やった人が見たら、もう、あそこにどもは、持って行くどんじゃなかと言うようになるでしょう。神様も同じことです。ね。ですから、胃が悪かったりする人には、その、この食物訓を良く味合わせてもらうと、胃が良くなると言われるくらい。今まで、お粗末ご無礼な頂き方をしておった事を、心からお詫びをする。ね。そして、あれは嫌い、これは好きと言わずに、何でも、神様のお与えものとして、頂くという事になれば、それは、医学の上では、毒といわれるようなものでも、薬になる。いわゆる、毒薬煎じて薬になる。
私共なんか、糖尿病ですから、甘いものは、絶対頂いてはいけない。お酒類もいけない。けれども私は、甘いものであろうが、辛いものであろうが、ね。頂く。神様が、与えてくださるものなんだから、頂く。ね。そういう、頂く心で、食させてもらうから、身体にもさわらない。はぁ、糖尿病の人達は気の毒ですよね。お酒好きでも、お酒は飲まれん。甘いが好きでも、さぁ、こっから、よだれが出るごたったっちゃ食べられん。たらたらするから、身に現れてくると、ね。だから、金光大神の、いわば、教えを頂いて、ね。その頂き方と、その味の付け方というものを覚えさせていただいたら、糖尿病に牡丹餅でも、お酒でも、決して、毒にも害にもならんのだ。という事を、金光様のご信心させて頂く者は、それを実証していく。金光大神の御教えを、実証して、現していかにゃいけん。ね。命のために下さるのだから。ね。頂かせて貰う。頂き過ぎて、お腹を壊す様な事であっては、また、ご無礼になる。もう、その辺の所をね。心掛けさせてもらわにゃいけん。お醤油でも何でも、ここへ、じゃーっと掛けてから、ね。そしてから、お茶でゆすいで、こう飲みゃ、それで良かごと思うとる。そげなこつしよると、喉の乾いてから、かえっていかん。だから、始めから、ちゃっと、適当なね、適当に、お漬物に、お醤油かける時でも、適当に、始めから掛けな。ね。いわゆる、心無い人の醤油というかね、心無い人の醤油、心無い人のすることは、そういう事。それが、お粗末になる、ご無礼になる。
あぁ、心無いと言えばね、私共が、本当にあの、心があるという事を確認する。心があるんだという事が分かる。けれどもその、そういう心がある事が分かるんだけれども、ね。心無い人と同じような生き方の事を、もう本当に、心無い人のすることよという事になるのです。公園なんかに行ってから、例えば、桜の枝を押し折ったり、もう、食べ散らかしたり、もう、お便所行ったらもう、こう、落書きをしたり、いっぱいしてある。いわゆる、心無い人達の、あれは、仕業なんです。ね。だから、信心によって、自分の心の、心というものを確認する。心があるいという事が分かったらです。そげな事は出来ませんよね。心を、大事に大事にしなければ、おかげを受けられないて。もう、おかげは、和賀心にあると仰るのだから。そういう、心無いことは出来ません。ね。そんな人が、だから、人が見よらな、どげなこっでんする。そういう事ではね、おかげになりません。
ですから、この、食物訓は、この、人の命の為に、食物はあってありますようにです。そういう、私共の心の上にです、心にも、やはり、糧がいるんです。そこで、神様は、心の糧を、与えて下さる訳ですから、その心の糧も、みんな合掌して頂こうと言うのが、今、合楽で、ね。御事柄として、押し頂いていただこうと言うのです、全ての事柄を。ところがその、全ての事柄は、もう、自分の好きな事ばっかりは、決してない。嫌いなこと、いや、もう困ったこと、面倒なこと、損になること、そういう事もあるのですけれども、金光大神のお取次ぎを頂いて、その、いやな事、困ったことに、味を付けさせて頂く事を覚えるから、そのことが、有難いとして頂けるようになる。ね。だから、いわゆる、食物訓は、そのまま、あの、心の糧という事にもなる訳ですね。今日は、そこんところへ移っていっておる訳です。食物も、今、前半に申しました様な事、ね。なら、これから、私が言おうという事も、同じ、心の食物、心の糧、ね。心の糧と言うものを、好き嫌いを言わずに、ね。なんでも有難く、神様が、ね。目の前に出してくださるものならば、一応は、有難く頂かせて貰うという事。ところが、なかなか、頂き難いものが沢山ある。とりわけ、損になることなんかはもう、嫌なのですけれども、ね。痛いことやら、苦しいことやら、恥ずかしいことやら、言うなら、難儀という難儀なものがです。そのまま、心の糧になるのだけれども、頂きたくないのです。
今日、私、ある方のことをお願いしよりましたらね。ひさご、いわゆる、瓢箪です。私は、今日、初めて、そのことを教えて頂いたんですけれども。あの、瓢箪と言うのは、なかがこう、くくられてありますよね。中が、狭くなってまるよ。だから、お酒を注ぐときには、あの、じゃぶっと、こぼれんとですげな。私は、今日、それを頂いて、初めて、ははぁ、瓢箪と言うのは、そういうもんだなぁと分かった。一つの瓢箪でも、どんなに小さいものでも、なかが、くくられてあるから、どぼっと、出らん訳ですよね。勿論、瓢箪に、醤油を入れたてんなんてんち言う話は聞いた事がない。瓢箪には、やっぱり、昔から、お酒を入れるものとしてある。お酒ということは、有難き、勿体なき、恐れ多きの、お神酒、神酒を入れるもの。そこで、私、今日、ある方の事をお願いさせて貰いよったら、今、その方は、修行の真っ最中と言うように、もう、ぐいぐい、神様から、締め付けられるような状態のなかを、今、修行しておられる方です。ね。けれどもね、人に、そのお神酒を注いで上げる時に、お粗末にならないように、こぼれんように、瓢箪としての、(よいちを?)、また、中にお神酒を入れさせていただく、その容器の受けものと言うものを、今こそ、頂いておらるる時だという事なんです。ね。自分が頂いたおかげを、今度は、人にも与えなければならない。そん時には、お粗末になって、がばっと、出る様な事がない、いわゆる、今、くくられておる、いま、ね。それこそ、お腹を、こうやって、締めくくられておる様に、ね。そういう、例えば、それが難儀な問題であっても、神様の心の中には、そういう心の糧に、心を育てて下さろうとする働きなのである。ね。
昨日、佐田さんところの共励会でした、久留米支部の。初めて、龍さんが、出席されたという事です。龍さんと言うのは、あの、自動車の修繕などをなさっておられる。毎日、日参して見える、もう、本当に熱心な、本当に熱心。私は、昨日、龍さんに言ったことでしたけれど、あなたのような心掛けの人が、合楽の中に、信者さんがおられると言う事は、合楽の誇りですよち。いいや、そげな事はありませんち、信心が出来ませんのにち。いいえ、その、あーたの心掛けのほうなんです。信心は、大したことは出来ません。ただ、毎日参っとるちいうだけの事。だけれども、あーたの心掛けが素晴らしい。そういう心掛けの人が、合楽におるという、合楽の教会にあるという事は、合楽の誇りだと、私は思うと。まぁ、そんな事を、昨日、佐田さんところで話をされたそうです。
ある人から、自動車を頼まれた。金額は、はっきり忘れましたけれど。例えば、まぁ、そうですね、今頃ですから、まぁ、十五万、まぁ、十五万で請合われて、もう、ほとんど、新車同様の車を、綺麗に仕上げられた訳ですね。そして、頼まれておる方に、持って行こうという時に、ある方が、それを見てね、あんまり安くて素晴らしいもんじゃけん。もう、五万円かつるけん、私に、分けてくれち言うて、二日間も続けてきなさったち。先方からには、手付け取っておる訳でもないし、まぁ、いうなら、いつでも良いのだから、ね。次の、また、あった時と言うても良いのだけれども。んにゃ、これは、誰々さんに頼まれてのことじゃから、そんな訳にはいきませんち。もう、みすみす、五万円、そこで儲からん。誰も知らん、その方に売ったっちゃ。ね。その事をです。昨日、佐田さんところで、もう、神様が、私ば、まぁだ試しなさるつもりじゃろかと言う話をされたという事です。ね。例えば、突いたって、引かれたってです。もう、私は、間違いはしませんと言うものが、もう、心掛けのなかにある訳ですよ。ね。
私共も、やはり商売をして来ましたから、私なら、もう直ぐ、その、もう五万円気張ると言う人に売ったに違いないです、私なら。そして、そこに都合よう言うちから、また、次の車を、その、頼まれてるほうには、あげても良い訳なのですから。けれども、やはり、心掛け。それこそ、心無い醤油ではなくて、もうね、自分の心を、少しでも傷つけたくないと言う生き方なんです。素晴らしいなぁと思うた。
昨日の朝の、御祈念の後に、吉井の熊谷さんが、お届けをされました。先日、久留米におかげを頂きましてから、あの霊祭ですね。あちらでその、何かこの、腰がこう、たがえたように、とても痛むとこう言うのです。それで、こちらへ帰らせて頂いて、お取次ぎをなさって、ちょうど、末永先生が、御結界に奉仕しておられましたから、そのことをお願いしましたら、末永先生が言われました。実は、熊谷さん、私も、腰をたがえちから、もう、久しゅう、腰を曲げたようにして、爺さんのような歩き方してる。ね。と言うて言うた所が、熊谷さんが言われること。いやぁ、そうですか、そんならもう、あなたの、それはお祭り替えかも知れん。もう本当、お祭り替えと思うて、あの、あーたが、少しでも楽になりなさるように、神様が、お祭り替え下さったのかも知れん。私も、そのお祭り替えを有難いと言うような意味の事を言いよったら、あの、末永先生が言われましたち。ぞうたんのごと、熊谷さん、あんたが、幾ら、くれちたっちゃ、絶対やらんばのち言うちから、言いなさいましたと、こう言うのです。ね。これが、信心の根性です。ね。神様が、心の糧に下さってる、言うなら病気でしょ。もう、それを、そういうところに、神様の御神意があるだろうかと、一生懸命、そのことを有難く頂けるところに、人からその、少しばっかりでん、上げたりするなら、自分が勿体ないじゃないか。ところが、私達は、どうでしょう。その難儀な中から、逃れたい逃れたいという事だけを願いよる。その難儀の中に、その難儀という食べ物、その食物、心の糧をです。如何に頂きこなすかという事をです。お取次ぎを頂いて、味の付け方を習うと言う姿勢を取らずに、ね。ただ、こげなものは食べられん、心の糧にしようともしない生き方。結局、最近、言われる、お互い、信心の根性を持てと、こう言われておるのは、私は、そういう事だと思う。ね。早う、そこから、どうぞ一日も早う楽になりますように。なるほどそれは、願わんわけじゃない。楽にならなければ、御用も出来んのだから。けれども、おかげ頂きたいと、思うなら思うほど、そのことの内容というか。どう、どの事を味付けさせて頂くかという事を、金光大神のお取次ぎによって、いわゆる味見をさせて頂いて、人が見るなら、難儀の中を、その難儀どころではない、それを有難いと受けられるところまでね。信心は、進められていかなければいけない。心が、心の糧として、それを頂く。それは、頂けない事もある。けれども、本当に、それを如何にしていただくかと言う、味付けを覚えさせて頂くとです。いよいよ、それは、心が、いよいよ、栄養を得て、豊かな心、大きな心に育っていくことが出来る。豊かな、大きなおかげを頂きたいと思うなら、どうぢても、心に糧を十分に与えて、ね。いよいよ、おかげを頂かなければいけない。
昨日、一昨日の、久留米の霊祭から帰らせていただいて、久留米の石橋先生のお徳というものは、どういう信心から、あぁいう、おかげが生まれただろうかと。石橋先生は、「天地神明に不足を言わず」といった様な事を、神様に、まぁ、誓うておられたように思われます。ね。その事が、先生のお伝記に載っております。「天地神明に不足を言わず」起きてくる、様々な事柄。どういう、例えば、食べ物を目の前に出されても、これは食べん、こげなものは好かんという事は、決して申しません。ね。それを、言うならば、心の糧として、不足を申しません、頂きますと言う生き方。いよいよ、心が、それこそ大空のように、豊かな大きな心になられた。そうなられるためには、もう、それこそ、場合には、血の涙の流れる様な事もあったろう。そこんところを、神様におすがりして、いわゆる、久留米の信心の生命と言われる、信心辛抱、し抜かれたのであろう。ね。そこに、いよいよ、豊かな心、大きな心、その大きな心になるためには、やはり、頂きたくないという事もあろうけれども。泣く泣くでも、それを辛抱して、信心辛抱というところまで、それを仕上げられたところに、久留米の初代の、あのような大徳というものをお受けになられた。いよいよ、受けものも大きゅうなた訳。それで、あの様なおかげを受けられた。その、受けられたおかげでです。先生は、生涯、ね。道の御用という事に精進されたという事になるのです。ね。人が百の御用頂くときには、千も万もの御用が出来るほどしのおかげを受けられたのもです。その元を正せば、心の糧と言うものをです、ね。十分に、それを、頂きこなしなさったところに、そこんところを、信心辛抱し抜きなさったところに、あのような偉大なお徳を受けられた訳です。大きなおかげを頂きたいと言うのは、どうでも、だから、そこん所が、いわゆる、頂きこなされなければいけません。荒噛みじゃいかん、その、頂きこなさにゃいけん、ね。そして、それを、美味しいと言う、頂けるところまで、それを有難いと頂けるところまでいかにゃいけん。ね。おかげで信心が出来ますと言う、石橋先生の生き方が、どういう難儀な事があっても、ね。その難儀なことのおかげで、信心が出来ます。おかげで修行が出来ますと言う取り組み方なんです、ね。それには、只今、私が申しました、ね。末永先生がその、熊谷さんに言ったというです、ね。そういう根性が必要なんです、信心には。ね。
その難儀を、私が、その、分けてくれと人が言うてもです。もう、ぞうたんのごと、こげな、人には、くれというたっちゃ、やらんよという根性なんです。ね。同時に、例えば、ほんなら、龍さんの例を取りましたけれどです。自分の無欲、自分の都合でです。ちょこっと便利が良かりゃ、もう、そのほうに、ぺらりするような信心、心掛けでは、おかげは受けられないという事。ね。例えば、龍さんがどうでしょうか。お取次ぎを頂かれて、実は、誰々さんから頼まれておる、十五万円の、例えば自動車は、ある人が、どうでんこうでん二十万円出すち言いよるけんで、あの、そちらのほうに、どんなもんでしょうかと言うて、お伺いされたら、ね。そりゃ、それを伺うなら、もう、絶対、そんなら、その二十万のほうに売りなさい。そして、後の人の、またお繰り合わせを願いなさいと、私は、言うに違いはないです。けれどもその、ね。お伺いをする時には、もう、言うなら、食べたい心なんですよ。ね。お伺いをする時には、そん五万円が欲しいからお伺いしよるとです。だから、神様は、その心のほうへ、傾きなさるわけですよね。ですから、そげな事なんか、もう、お伺いすることじゃないて。
そこんところを、例えば、ほんなら、龍さんの場合なんか、見事にやってのけていかれるわけですね。こら、いつの場合でも、そうなんです。だから、あのようなおかげを、・・・。もう、そりゃもう、本当に、おかげを受けた人です、この人は。第一、身体の上には、人の前には出られないと言う病気じゃったんです、あの人は。ね。何とか恐怖症という、もう、それこそ、世にも不思議な病気じゃったんです。ね。そして、本当に、あの、もう、現在のおかげを受けられて、五六年になりますでしょうか。それまではですね。人の、ほんなら、ただのような空き地を借りて、自分で建てられた家に住んでおられたです。本当に。それを、おかげを頂いて、そこに糧を食った時にです。一心におすがりさせて頂いて、御神意のまにまに、おかげを頂いて、現在の、あの、元、風呂屋じゃったという、大きな家をね。買い取ることが出来られて、もう、自動車でも何でも、どんどん、中に入れられるようなね、もう、家に移られた。という様な、まぁ、言うなら、数限りのないおかげを頂いておられますけれどもです。ね。だからその、龍さんの、そういうような、そのこ心掛けに、末永さんのような根性が入ったら、こらもう、大した信心じゃろうと思いますね。ね。まぁ、段々、神様が、なら、久留米におって、久留米の支部の共励会にでん、出たことのなかという様な程度ですから、ね。まぁ、夕べ、初めて出られたという事ですけれども、段々、自分と神様だけの繋がり、自分と親先生だけの、縦の繋がりではなくて、ね。横のほうへの繋がりも、段々、出来られるようになった時に、龍さんの信心が、いよいよ、プラスという事になるだろうと、私は思うですね。
今日は、食物は、みな、人の命の為にという事を、前半に聞いていただきました。そして、後半を、ね。いわゆる、その、心の糧、神様が与えて下さる、心の糧をです。ね。私共が、いわゆる、押し頂く。いわゆる一つの根性を持って、それを頂き抜かせていただくおかげを頂く時に、ね。天地神明に不足をいわずと言う、おかげをいただく腹を決めて、一つ、神様におすがりをして、その味付け方法を習っわせて貰うて、ね。辛抱し抜かせて頂いていくうちに、いつの間に、こういうおかげを受けれれる様になっただろうかと言う様なおかげを受けられる。その大きなおかげをもって、いよいよ、世の人、または、社会のために、道のために、お役に使うて頂けれる、いわゆる、御用が出来るおかげを頂かなきゃならんのですよね。
まぁ、前半と後半を、そういう風に、分けて頂いたんですけれども、食物の上においてもしかり、心の上においてもしかり。ね。一つ本気でね、そこんところに取り組ませていただく。その辺の所を、もう、いい加減にしない。ね。信心をさせて頂いて、ね。大きな心、豊かなおかげを頂かせていただきたいと思う。どうぞ。